
私は、昭和27年初代西川扇一郎の三男として奄美大島・名瀬市に生まれました。ですから、日本舞踊との出会いは生まれる前からと言ってもいいかもしれません。(笑)1歳の時沖縄に籍を移し、壷屋小1年で、初舞台を踏みました。父は父でありながら師匠という存在、大勢のお弟子さんへの稽古が中心の日々が続いており、私はその片隅で稽古をしっかりと眼に焼きつけていました。そんな毎日が続くだろうと思っていた昭和40年12月父が49歳という若さで他界してしまったのです。一連の事柄が執り行われ、翌昭和41年夏。追悼公演を終えて父の跡を継ぐようにと、東京の宗家の下へ内弟子として入ることになったのです。中学2年生の私に、悲哀にひたる感慨の余地などありません。ただ、私に課せられた使命だけを胸に上京しました。東京の中心、六本木の師匠の下での修行は30年余を重ねました。まさか、このように永きにわたるとは、紅顔の美少年だった(笑)私には想像もつかないことでした。
昭和47年には、二代目西川扇一郎を許名され、名取となりました。昭和50年には日本舞踊家の登竜門である「新春舞踊大会」にて、最高にあたる大会賞を受賞、以後3回受賞し、免許皆伝となり、師範となりました。
昭和61年には文化庁主催公演に選抜され、以降、日本国内はもとより、ニューヨーク、ワシントンDCにて公演に参加、平成元年、平成4年、平成14年には沖縄公演を果たし、故郷に錦を飾ることができました。とりわけ平成4年10月の芸術祭沖縄公演「華麗なる舞の世界」において、十世宗家と『連獅子』を舞わせていただいたことは、感無量でありました。

昭和51年の那覇市民会館における『平和記念音楽祭』、昭和57年父の十七回忌追善公演、昭和59年からスタートした沖縄ジャンジャン公演などで、東京から度々沖縄へ参る機会があったのですが、これも時の流れでしょうか、その度に沖縄の地を愛し舞踊に捧げた父、初代西川扇一郎の名が消えていくような空気を感じたのです。そこで、30年を機に沖縄へ拠点を遷そうと決心するに至り、平成4年沖縄に戻って参りました。沖縄コンベンションセンター劇場棟が完成し、柿落とし公演に出演、以後、沖縄本島を拠点に、各離島において公演を重ねる一方、西川流の一員として、国内外の公演に参加して参りました。その間、父の故郷である奄美大島で公演を行い、多少なりとも親孝行ができました。
中学2年生で東京に出たら沖縄のことは忘れてしまうのではと思われがちですが、逆に沖縄がよく見えるポジションにあったと思います。日本舞踊はもちろんのこと、琉球舞踊、バレエ、インド舞踊までこなした沖縄の父の下で育った13年の間に、私の中に血となり肉となった舞踊家としてのアイデンティティは、東京の日本舞踊の最高峰で学ぶことによってさらに大きくその存在感を増していきました。本流を磨くことによって、沖縄を再確認し、さらにもうひとつの舞踊の世界、『沖縄』が私の中で育っていったように感じます。
 『日本舞踊の最高峰の演目である道成寺を沖縄で』、ずっと思い焦がれてきた夢を叶えることができました。そして、又この機に初代の大賞受賞作品の創作を復活させることができ、父の門弟のお姉さん方に恩返しもできたように思います。又、本土に学ぶ愛娘二人が学業の間をぬって稽古に励み、出演してくれたことも喜びでした。
昭和30年代沖縄において芸術の華を咲かせ、一時代を築いた父に微力ながら報いることができたのではないかと、考えております。これも偏に宗家をはじめ諸先輩、後輩、日本舞踊を楽しんでくださる方々、そして内々のことで恐縮ですが、家内、愛娘の存在がとても大きいことは今さらながらに感謝に尽きません。
今年はその流れを汲むべくさらに公演を重ねて参ります。6月3日に浦添市てだこホールにて、「沖縄タイムス芸術選賞 大賞受賞者公演『独楽』」、国立劇場おきなわで「沖縄日本舞踊協会35周年記念公演」、又、9月に浦添市てだこホールにて「怪談競演・芝居と踊り『逆立ち幽霊』『色彩間苅豆(かさね)』」その他を予定しております。一人でも多くの方に沖縄にて日本舞踊の楽しさを味わっていただけるような、公演活動を続ける所存です。
 舞踊の世界は日々精進、これに尽きます。そして、次代へ繋ぐということです。中学1年生で父を亡くした私ですが、短かった師弟としての時間に芸術に対峙する心を教えられました。今、私に続く門弟を育成することに力を注いでおりますが、長女は現在東京芸術大学で日本最高峰の芸術教育を受け、次女は秋田県のわらび座に所属し、和製ミュージカルに出演しながら舞台芸術を学んでいます。若い日に、一度、沖縄を離れ外の空気に在る時間を得ることは、私の経験上、とても有意義なことだと考えています。各々の新たな世界を創造する時を経て確立しながら、将来は沖縄のDNAを持つ芸術家として、沖縄に還元してくれることができたらいいですね。娘がライバルになるということはとても幸せなことだと思います。夢は、沖縄をベースに5作品の創作を行った父を越えるべく、現在3作品の創作をさらに重ねていくこと…。もうひとつの夢は、娘どもと孫達、親子三代で舞台に立つことでしょうか(笑)
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