
母が日常的に洋裁をするような 環境にあったので、生まれてからずっと生地の海の中で育ち、いつしか自然に人形の洋服を作るような子供になっていきました。小学校2年生の時には、将来の職業はデザイン関係と…。(笑)。高校卒業後は、東京のファッション関係の専門学校に進みました。ファッション全般を勉強したくて、スタイリスト本科を選び、デザイン、アクセサリー、アドバタイジング、マーチャンダイジング、メイクなどを学びました。卒業後、就職した会社では、デザイン部門を希望したものの販売部門にまわされました。売り場にいれば売れると思っていたところ、4日間全く売れず、気落ちし、退職しようと思っていた矢先、気にかけてくださる方に声をかけられたのです。私がデザイン希望だという話しに、売り場でお客様と接することの大切さを教えてくださいました。お客様の声を伺うことがデザインをするという行為にいかに役立つかと…。2年間、一生懸命販売の仕事に打ち込みました。今から約10年前のことですが、当時は服飾の専門知識を持った販売員は珍しかったんですね。専門学校で学んだことを活かすいい経験になりました。

順調に成績を重ね、「もう1店舗出店するから店長として行ってくれないか?」という会社からの打診があったのです。その時、潮時だと思ったんですね。22歳で副店長になり、ここで店長になってしまったらもう抜けられないと…。そして、「デザインの仕事をする夢を叶えるため、留学したい」と切り出したのです。理解ある上司で快く送り出してくれました。
当初、イギリスに行きたかったのですが、たまたまお客様に「オートクチュールについて勉強したい」とお話ししたら、フランス行きを進めてくれたのです。そして、世界的にも有名なオートクチュールの専門学校に入学しました。しかし、パリではいきなり打ちのめされました(笑)。まず、フランス語がわからないので、課題の内容がわからない。結局、徹夜で辞書と首っ引きになって「多分、こんなことを言ってるんだろう」と、判断し提出したら、検討違いで、あっけなく「NON」でやり直しという具合…。半年間は毎日泣いて過ごしていました(笑)。しかし、石の上にも何とかじゃないですが、頑張っているうち、フランス語もなんとか話せるようになり、フランス人の友達もでき、ホームパーティに呼んでもらったりと、楽しい時間が始まりました。泣いていた毎日が嘘のように、見渡せばフランスは若いクリエイターの卵にとても寛大な国だったんですね。学校卒業を目前にして、何とかフランスに残れる道を探そうと、メゾンで研修を重ねることとなりました。勉強しながら、給料や昼食費も出るなど、とても恵まれていました。しかし、正式なデザイナーとして採用する段になると、もし同じ成績だとすると、やはりフランス人が優先されるんですね。そこで、そろそろオートクチュールなど、フランスで学んだことを東京で活かしたいと思い、一旦東京に帰ることにしたのです。そしてまた、フランスに帰ってこようと…。日本でオートクチュールの仕事ができるのは、ウエディングが主なので、とりあえずウエディング関連の会社に就職しました。そうしたらその途端、部門自体、閉じてしまい、アクセサリー部門の立ち上げを任されることになったのです。結局、4、5ブランドのアクセサリー部門を任され、同時に洋服のアシスタントデザイナーも同時に行うという、超多忙な毎日を送ることになったのです。うどん屋で夜食を食べて、深夜まで残業を続けるという…。ここには3年間在籍。その後、大阪のフォーマルバッグの会社に移籍し、和装バッグ部門でデザインを2年間行っていました。そして、フランスに行こうと思い、昨年、一時帰沖したのです。
 そうなんです(笑)。大阪にいる間、沖縄の友人が神戸でジュエリー展を開催していたのを見て、アートのグラウンドができていることを見せつけられました。沖縄の可能性を感じたんですね。そして、一時帰沖した時、友人のアトリエに行った時、日本でも屈指の真珠メーカーの御子息で、大好きな沖縄でのんびりとアートの時間をお持ちになっていらっしやる田中先生と出会ったんです。先生の技術をパリに行くまでの間、学ばせていただこうということになりました。しかし日本を代表する技術を学ぶうち、また沖縄の伝統工芸を見る機会を得るうち、自然に、沖縄に根を下ろして仕事をすることになりました。今年6月には展示会を開催しましたが、デザイン画を描いて田中先生にご相談する中で、漆のヒントを得ました。元々、母、叔母など周りが漆を蒐集しており、私も好きだったので、自然に入っていきました。また、沖縄には元々銀細工があったので、シルバーも入りやすい素材でしたね。これらに加えて、珊瑚、ペリドットなどを素材としネックレス、ブレスレット、ピアス、バッグなどの作品が生まれました。例えば、バッグは、ベルベットを素材とし、母にミシンで縫ってもらい、持ち手を漆とし、シルバーをはめるという感じで、和装にもドレスにも使えるようにしました。沖縄に帰って来ることによって、新しい道が開けたような感じですね。今は、パリは遊びに行く場所、沖縄が私の拠点という気持ちになっています。
 いずれは、沖縄に帰って沖縄のためにお役に立ちたいと思っていましたが、それは40代、50代になってからという心づもりでした。今日、お話しをさせていただいて、それは今なんだと、そしてさまざまな出来事も、すべて今につながるプロセスだったんだと改めて認識することができました。ファッションの基礎を学びお客様の視点を知った東京、ファッションとは?オートクチュールとは何かを学んだパリ、そして現在あるのは生まれ育った沖縄。足下にあった伝統工芸の素晴らしさと、これまで学んだことを融合させることが、私がなすべきことなのだと考えています。しかし、まだまだスタートしたばかり。これから、足下にある宝物を掘り起こし、田中先生をはじめ、多くの方々に刺激を受けながら、微力ではありますが、私なりに沖縄を表現していきたいと考えます。

沖縄で学ぶことも大切だと思いますが、若いうちに一度は外に出る機会を持つとよいと思います。私も、東京、パリと、外に出れば出るほど、沖縄から世界に発信できるものを作っていきたいと思うようになっていったんですね。沖縄の素晴らしさを認識できる時間を作ることができると思います。また、若いうちに作った仲間とのネットワークもよかったなと思っています。東京、大阪時代の仲間、パリ時代には世界各国からの学生がいましたので、ヨーロッパ、アメリカ、アジアに友人ができました。このネットワークもいずれはお互いに活かせる機会ができればと思います。
|