
はい、私の祖母が初代で、母、そして私が三代目になります。きしもと食堂がある本部町渡久地は、良港に恵まれた土地で、船が主な交通手段だった頃から、ヤンバルの要所として、各地から特産物が集まり、今も残る市場は大変な賑わいだったとよく祖母や母から聞かされていました。祖母は、士族の出でしたが、廃藩置県の際の混乱で、ヤンバルに住むようになったようです。祖父は那覇市久米出身で、いわゆるクニンダといわれる中国からの流れを汲むところの出だそうです。そんな祖父と祖母が結婚後、住んでいる渡久地の賑わいを見て、何か商売をと考えて始めたのが、沖縄そばの店だったのです。当初は、支那そばと言っていたそうで、さだかではありませんが、久米出身だった祖父の家庭の味だったのではないかと思われます。その後、すばと言っていましたが、復帰後、日本蕎麦との区別をつけるため、沖縄そばと言うようになりました。生まれた時から、母が祖母の手伝いをしていたので、私も含めて家族みんなで手伝っていました。学校から帰ると、水汲みを何往復もしながら、お客さんにそばを運んだりという毎日でした。子供の頃から見ているので、そばの作り方も自然に覚えていきました。私は、兄が1人、妹が2人、弟が1人の5人兄弟ですが、戦後兄が亡くなり、妹が後を継ぐ形で動いていましたが、あまり丈夫でなかったことから、次第に私が店をみるようになりました。学校を出てから、役場勤務の公務員でしたので、土・日など、休日を中心に手伝っていました。また、私の主人は、会社員でしたが、なぜか、沖縄そば作りが好きで、祖母や母に可愛がられており、休みの日は私といっしょに店の手伝いをしていました。定年を迎える頃には、自然に私が中心に動くようになり、家族からも三代目は私にという方向になっていきました。

祖母や母がいつも言っていたのは、木灰の上澄みを使うことは身体にいいはずだという、いわばおばあちゃんの知恵的な昔の人の考え方でした。自然のものを食べていれば元気に暮らしていけるという…。祖母や母の時代にはそう珍しくなかったかもしれませんが、食の安全や健康についての意識が高くなっている今、昔の人の知恵はすごいなと、身内ながら思っています。沖縄ブームも相まって、自然からの食を沖縄に求める皆さんが観光でいらした時に、足を運んでいただくようになってから、次第に全国からお客様がいらしゃるようになりました。ありがたいことです。しかし、小さな店内に入りきれず、店の前に行列になっているお客様を見て、失礼になっているのではと考えるようになったのです。そこで、息子に四代目として継いではもらえないかと水を向けてみたのです。息子は、イギリス留学後、ビール会社で開発の仕事をしていました。いずれは継ぐと言っていましたが、継ぐなら早い方がいいと告げました。というのも、私が母から継いだのが、母が年を重ねてからだったので、どうせ本業として継ぐなら若いうちだと思ったのです。ちょうど、今から3年前、創業100年目の節目ということもあり、息子も快諾してくれました。八重岳の麓に開店し、おかげさまで息子が中心となって動いています。ビールを作るという息子の夢もいずれ、叶うのではないかと期待しています。本店と八重岳店は、独立採算制をとっており、両店での材料などの相互のやりとりも伝票を切って行うなど、家族経営ではありますが、けじめをつけて行っています。今後、お互いに伸びていくには、これは大切なことだと考えており、とくに息子は一家の主として、また従業員をかかえる長ととして、これからの人生を歩んでいかなければならないわけです。母としてというよりも、人生の先を歩むものとして、独立独歩を後押ししていきたいと思います。
 木灰を使い続けて100年を経て、今さらながら先人の知恵に感心するところですが、私は、こういう時代だからこそ、木灰そばとは何かを多くの皆さんに知っていただきたいと考えています。このような方針から、なるべく、取材はお受けするようにしてきました。私の夢は、ちょっと大きなことを言うようですが、木灰そばを国内に限らず、世界の皆さんにも知っていただきたいということなんです。おかげさまで、そんな願いが叶ったのか、外国のお客様も来店していただけるようになりました。とくに、本部町内にある大学の研究施設には、世界各国から研究者がいらっしゃるのですが、頻繁に来店していただいています。特にあるイタリア人の研究者の方は、大変気に入っていただき、イタリアに帰る際、「このお店をイタリアに持っていきたい」とおっしゃっていただけるほどです(笑)。本当にありがたいことです。
100年を数えるまで店を続けて来られたのは、各地から来店してくださるお客様はもちろんのこと、長く支えてくださった地域の皆さんがいらっしゃったからです。今後も、地域を大切にしながら、国内、国外へと、木灰そばを伝えていければと思っています。
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