
とくに映画が大好きというわけでもなく、ごく普通に映画鑑賞する位のスタンスでした。大学時代の先輩が外国へ移住することになり、琉映への入社を進められたことがきっかけです。「給料は安いけど映画はタダで見られるよ」…。その言葉に、単純にいいなと思ってことがそもそもの始まりです。(笑)その日から27年も経ってしまいました。興業の世界は10年働いても子どもと言われる世界で当初は小僧扱いでしたが、東京への試写出張など、若い私には刺激に満ちた日々が続きました。「宣伝費ゼロで宣伝しろ」これが命題。無理難題を言うでしょう(笑)。でも、若いうちは、上司の無理なお達しが血や肉になるなるのだと今は感じています(笑)。新聞社、放送局を訪ね、「招待券を差し上げますので、宣伝をお願いします」と出向いたところ、担当アナウンサーの方から「あなた、やりなさい」と言われ、ラジオ番組に出演するようになり、今に至っています。私が話すことなんかで、宣伝になるのかな?と当初はやや尻込みしていましたが、長く続けるということはまるでボディブローのように効いてくるもので、ラジオ番組への反応も出て来るようになりました。若かった私はひたすら、集客アップのために必死だったんですね(笑)。
沖縄は他府県と比較にならないほど、映画への思いが強い土地なんですね。放送に気軽に素人がレギュラーになったりするなど、本土では考えられないと言われています。

映画に関わるうち、沖縄の映画の特殊な歴史を学ぶことになりました。米軍統治下時代、沖縄は映画を輸入していました。当時、映画は花形産業、沖縄も同様で、庶民の娯楽の中心でした。沖縄のお客様が映画をたくさん見てくださることによって、多くのドルが本土に入ったんですね。まさに沖縄はドル箱という状況だったのです。日本経済の一翼を沖縄が支えていたといっても過言ではありません。また、当時は密貿易により、正規ルートで上映されない洋画が見られるというようなこともありました。沖縄は映画の最先端だった…。そんな時代から連綿と続く、言わば「映画愛」がこれまでずっと続いてきてるんですね。米軍統治下、青春時代を過ごした方にはとくに映画への思いが強いようです。
来場するお客様の層をご覧になると桜坂劇場の特性がよくおわかりになると思いますが、若いコアな映画ファンから60代以上の往年の映画ファンまで、かなり幅広いんです。これも本土では考えられない状況なんですね。映画は若い層が見るものという東京の価値観とは異なるものなんです。沖縄には民謡の新曲が次々生まれていますよね?これを本土の方に話すと、「民謡の新曲?」と、大変驚かれます。本土では民謡は昔の音楽なんです。これは、沖縄の文化の高さがわかるエピソードですよね。
 はい、これは、本当に文化への思い、そして映画への思いが強いお客様お一人お一人のおかげなんです。
1986年、今では当たり前になったシネマコンプレックススタイルに移行し、「桜坂シネコン琉映」が生まれましたが、やりつくした感があり、2005年4月に閉館が決まりましたが、その後、「ないよりはあった方がいい」ということになり、さてどうしたものかと思案した結果、琉球大学映画研究会時代に制作した映画を上映したことから親交のあった、映画監督達に声をかけたのです。そこで、生まれたコンセプトが、「客の立場に立った劇場」ということでした。セレクト感を重視した個性ある空間をめざすことにしたのです。現在では、映画はもちろんのこと、カフェや古本屋で若い方から中高年層まで幅広い年齢層が同じ空間で、文化の時間を共有している光景はいいものです。また、ワークショップも開設しまして、「学ぶ」という新たな分野で、地域の皆様に喜んでいただければと考えています。
当初、「市場はあるのか?」という不安があってのオープンでしたが、「こういう場所を求めていた」という年輩のお客様の声や、古い映画を上映した時に、初老の男性がお母様を連れて来場し、「60歳過ぎて初めて親孝行と言われた」などという声を聞き、オープンしてよかったなとしみじみ思いました。

連綿と続いてきたウチナーンチュの文化の高さは若い層のDNAにもきっと引き継がれていると思います。今後は、我々が先輩に育ててきてもらったように若い観客を育てていこうと考えています。もちろん、往年のファンが喜んでくださる企画も打ち出して参ります。「ディープ」、「おバカ」、「なつかし」の桜坂劇場ならではの3つのキーワードを柱に、サプライズと意外性そして共感をいただければいいですね。
全国的にも例のない「ちっちゃな映画館の奇跡」は、お客様とともにあります。今後共、まちぐわーの劇場として、頑張って参ります。 |